お別れ
 
 
2019年5月15日
初夏を感じる日射しとなりました。
慌ただしかった春も終わりです。
 
3月末の大阪の展示から戻った翌週、
予期せぬ1本の電話が入り
再び約1週間、大阪におりました。
 
小学校の親友...というには疎遠な時間もあったので...
縁の深い幼馴染み。
 
懐かしい仲間と一緒に
小さい頃から難病だった彼女の最期を看取り
白いもろいお骨を
白い長いお箸で
慎重に崩さぬよう拾いながら
下半身の骨のはかなさに
車椅子に座っていた彼女の姿を重ね合わせていました。
関東から4人、九州から3人
オトナになった悪童たちが新幹線に飛び乗り、高速を飛ばし、
「わたしの葬式があんた達の同窓会!」と
色白の美人さんが皮肉な笑みで言った十代の冗談を
現実にしました。
もうすぐ四十九日です。
 
「16歳までしか生きない」と宣告され
17歳以降の数十年をどんな気持ちで過ごして来たのか
もうきけないけど きけないから文字にする。
わたしが
歌を作ったりサイトを立ち上げたり
表現する手段を持つと
「わたしのこと、書いてよ」とポツリと言った。
わたしごときの乏しい語彙と経験では
とても書き著せない山有り谷有り。
でも
自分で登ろうと決めた山に登り
谷から上がる時はまわりの人まで引き上げるような生き方。
 
歩けないこと、起き上がれないこと、
頭がいいこと、お洒落なこと、お習字が上手だったこと、ミーハーなこと
全部ひっくるめて彼女だった。
(我は強いけど情に厚い姐御肌の小学生!)
見えないひとが眼鏡をかけるように
歩けない彼女は車椅子に乗っていて
長い長い長い間
わたしたちにとってそれは全く特別なことじゃなかった。
 
 
 
 
こずえ。
ぜんぜん言葉足らずやけど
やっと書いたよ。
 
 
 
小学校の同級生が4月のはじめに急逝しました。
進行性の脊髄の病で、初めて同じクラスになった3年生の時には
もう歩けませんでしたが、本から得た表知識・裏知識は大変なもので
子どもだったわたしたちの先端をゆくリーダーのような存在でした。
こずえの車椅子を皆で無邪気に押していたけれど
正直なところ、段差は特に、本人はヒヤヒヤだったと思います。
でも、年老いた親の移動に車椅子を使うとき
「車椅子はまかせて」と腕まくりしてしまうのは
大事な友だちを乗せて押して教えてもらった経験があるからでしょう。
 
仲違いや、気まずくなったりしたことも、もちろんあります。
皆、社会人になって自分のことで精一杯になって
正直なところ疎遠にもなりました。ただいつも
こずえの「**が病気らしい」「**が結婚する」という幼馴染み情報のおかげで
仲間の輪が切れることもありませんでした。
 
病気の進行にもかかわらず、出来る限りの自立を求めて
九州から福祉の進んだ大阪に引っ越すことを決めたのは30代。
そして最近は24時間ヘルパーさんの介助を必要とする生活。
それでも
「今年は絶対見に行く!」と、ヘルパーさん4人の協力で
うめだ阪急までわたしの展示を見に来てくれたのは
亡くなる2週間前のことでした。
 
「五体不満足」が本屋さんで平積みされていた当時
車椅子の青年の表紙にひかれて思わず手に取りページを読み進むと
その中に描かれている小学校の風景は
自分たちのそれととてもよく似ていました。
 
こずえが逝った翌週、TVでは
「五体不満足」という出発点から一歩そして二歩と確実に
義足をつけた筆者本人が必死で歩き始めていました。
症状が全く違うふたりを比べることは無意味ですが
感動と喪失感が入り乱れ
ひとりさめざめ泣きました。
 
読んでいただいてありがとうございました。
もうすぐ彼女があちら側にいってしまうので
こちら側にいる間に
一筆でも書いておきたいと思いました。